復興支援事業 ふくしまバトン

人を紡ぐ・いのちを紡ぐ

更新日:

生命を守る基礎づくり
いのちを守る情報の共有を!!

さきほど震災関連死の話をしましたけども、震災6年目を過ぎた今も変わらない課題としてなぜ震災関連死が生まれるのか、というのをさらっとお話ししたいと思います。
誰が・どこで・何を課題として・どんな状態でいるのか。この四つなんです実は。この四つが支援者、それは例えば市役所とか役場とかそういう行政の人たち、それから社会福祉協議会の人たちとかボランティア団体、NPO、NGO、つまり被災者の人たちに関わる人たちを支援者と呼ぶわけですけど、その人たちの間で情報が一元化、一つにまとまってないんです。
みんなそれぞれが自分のとこで情報を持ってはいるんだけども、それを一緒にすればいろんなことが分かるのに一緒になってない。誰が・どこで・何を課題として・どんな状態でいるのか、というのが共有されてないからこの指の間からこぼれていく人たちが出てくる、それが震災関連死です。

例えば普段の生活の中でもそうですよ、岡山の人たち、晴れの国って言って災害も非常に少ない土地ですね、でも震災後特に岡山県のあちこちで震災防災の学習が進んでいる、それは何故かって言うと彼らは気づいたんです。ここが受け入れ地域になるんだってことに。
震災が起きた場所は本当に大変、でも受け入れ地域なるという事はある日突然大勢の人たちがやってきて、水くれ食料くれ毛布くれってくる可能性があって、その時に「いやごめんなさい、自分たちの分しか無いんです」では「何言ってんだよ」という話になりますから。同様に埼玉でもたくさんのそういう学習会が開かれていて僕も毎月のように行ってます。埼玉も同じ理由です。「そうか受け入れ地域になるのか」と気づいた。
そうなんです。日本はどこで災害が起きてもおかしくないそういう状況ですけども、実は災害が起きる地域だけではなくて、近隣の市町村は受け入れ地域にもなるんだということなんですよね。

誰が・どこで・何を課題として・どんな状態でいるのか。平時においてこれを共有していくことで、地域から孤独死や孤立死を無くしていくことができるわけです。
ちなみに言っておきますけど、個人情報だからダメだと思っている人がこの中に、大人の人も含めているかもしれませんが、個人情報保護法には一切そんなことは書いてませんからね。個人情報を提供しちゃダメだなんて書いてませんから。なぜそんなこと指摘するのかというと、ついこの間もね、県庁とやり合ったわけですけど、「個人情報出しなさいよ」「それは個人情報保護法があって」と言うから、個人情報保護法のどこに、何条にそんなこと書いてあるんですか?書いてないでしょって。
むしろ今は「災害対策基本法」っていう法律があって、基本法という名前がつく法律は、いわば理念法とも言われていて、例えば中学や高等学校の諸君は教育基本法っていう法律ですね、教育とは何なのかが明確に書かれてるわけでしょ。災害対策基本法とは災害対策とは何かってことがそこに書かれている。その中に実は平時つまり災害が起きてないうちから地域の名簿を作っておいてくださいねって明確に書いてあるんです。
個人情報保護法もそうですよ。何かあったとき、災害などで命に危険がある場合には是非この情報を共有して地域の命を救いましょうってなってます。そういうことの一つ一つを私たちはこの地域に住んでいるわけですから、話し合いをしてその状況を作り出していって叶えていくということが大事だと思うし、我々が今やってことはやがて君たちにいつかバトンを渡すような時期がきっと来ると思ってるわけです。

支援者の仕事
最高の使命とはなにか…

支援者というのは、その仕事は何か、最高のミッションは何か、命を守るということです。じゃあどうやって命を守るのか、これ以上のミッションは無いわけでしょ。
そのためには人と人とがつながるしくみを作ってくしかない、そのためにどうするのか、それは「交流と自治」という言葉で説明することができます。

ビックパレットふくしま避難所での取り組み

ビックパレットふくしまでの取り組み 

ここに当初は3000人が避難をしてきて、当時私は県の教育委員会にいたんですけど、ここに県庁の一員として避難所の運営を任され、その時は約2500人の人たちがいました。

生命を守るためには自治活動だ!
…阪神と中越から学ぶ

避難所での使命とは何かと言ったら、これは命を守るということ以外にはないわけですよね。これ以上のミッションはない。じゃあどうやって命を守っていったらいいのか。その時に思い出したのが22年前の阪神・淡路大震災(1995年)の災害のことでした。
あの時に実はやっぱり避難所が問題になって、多くの人たちがマスコミの方も含めて避難所をなんとかしろよって、被災者をいつまでああいう状態に置くんだ、空気も悪い、プライバシーもないトイレも本当に大変だ、いつまであんな状態で置くんだ。というふうに連日報道されていました。
早く仮設住宅を作って動かせって。当時の行政・役所の人は未曾有の広域複合災害に対する知見も少なく、とにかく仮設住宅を作って多くの人にそこに移ってもらった。
大人の方はわかりますよね22年前、中高生の君たちが生まれるずっと前ですね、ところがあの時、安心で安全なはずの仮設住宅でバタバタと人が死んでいったんじゃありませんか?
そうだったですよ。孤独死ですよ、孤立死でしたよね。なぜなのか…実はあの時に仮設住宅で自ら命を絶った人の遺書の全文を私は当時読んでいたんです。しかもそれを覚えていたんです。それは私の記憶力を良かったせいではなくて、あまりにも奇妙な遺書だったから。
何て書いてあったか、「もう一度避難所に戻りたかった」って書いてあったんです。おかしいじゃないですか、だって周りの人も避難所が問題で何とかしろて、早く仮設を作って動かせてって言われてそうやったのに、なぜ避難所にもう一度戻りたいって言って亡くなったのか。だから覚えていた。

東日本大震災の運営支援の中で、そうかそういう意味だったのかとはっきり分かりました。それはどういうことかと言うと、分かりやすく言いますね。
災害がおきますね、そうするとも多くの人は避難所に足を運びます。ご家族と暮らしていた方はもちろんご家族で避難してくるし、一人暮らしの方も一人で来る、そしてやがて落ち着いて仮設住宅ができると仮設に移りましょうねってことで、もちろんこのときも家族で来た人は家族で行くし、一人で暮らしていた方は、一人で仮設住宅へ行く。
ああでもそれか…、どういうことかって言うと、一人で仮設住宅に行った人は黙っていれば一日中シーンとしたままですよね。ところが避難所に居れば、みんな雑魚寝みたいなものですから、熊本の皆さんもそういうの見たことありますね、避難所の中で寝ている姿を。段ボールの仕切りみたいなものがあっても低いですから、そうやってみんな寝てる。
避難所に居ればあの段ボールの仕切り一枚の向こう側にある息遣いや温もりを感じることが出来たって、避難所にいれば周りの人達の色んな話し声が耳に飛び込んできたって、そうか避難所にいれば寂しくなかったのか。
もう一度避難所に戻りたかったっていう言葉を残して亡くなったその方は、どうして避難所に戻れなかったんですか?どうしてそんな言葉を残して亡くなったんですか。俺寂しいんだって言って死んでいったんですよね。俺一人ぼっちだって言って死んでいたんですよね。そういう意味ですよね。
だとしたら一人ぼっちにさせないからな、寂しくさせないからなっていうことを真の軸にしなければいけない。そこを中心に被災者の方々の生活再建とか、生活そのものを考えていかなければなりません。この寂しくさせない、一人ぼっちさせないということを言い換えた言葉が、この「交流と自治」ということです。

交流の場の提供と自治活動の促進というのが人の命を守るんだってことです。
いいですか中学生高校生大学生の諸君、この交流と自治というのをどうか胸に刻んでください。心に刻んで下さい。

交流と自治ってどういうことなのでしょう。どうすればいいのか悩みました。だって震災でコミュニティ、人と人との繋がりが全部バラバラになってしまっている。これは南海トラフの時もそうですよ。たとえば高知県の高知市では今の計算では2/3が浸水するって言われている。土地が海水で埋まればコミュニティは崩壊しますよね。人と人とのつながりがバラバラになってしまう。どうしたらいい…どうやって自治を築いていったらいいのか、スタッフで何か良い方法がないかと連日話し合いました。
「100人ずつ分けたらどうですか」という意見が出た。こちらの班長さん、あちらの班長さんとやっていけばいいじゃないですかと、そうだな…それも確かに方法だけど、それは自治じゃなくて管理になる。管理からは何も生まれないからなって。
じゃあどうすればいいんですか。避難所には全国から、阪神淡路とか雲仙普賢岳とか全島避難の三宅島とか災害支援の経験がある人たちが来ていました。先ほど言った山古志村の人たちもいて、「中越では何か方法はなかったの?」と聞いたら、足湯とサロンが効果があったって言ったんです。
熊本も温泉多いですけど、福島は170以上も温泉がありますが、足湯って温泉場の共同足湯しか思いつかないわけですよ。

足湯(ビックパレットふくしま)

これはビックパレットでの写真ですが、たらいにお湯をくんで、入浴剤を入れてね、腕章つけてる子はボランティアですね。ハンドマッサージをしています。こういうリラックスできる環境ができると、いろんなことを話すようになってくるわけです。
足湯って言うけれども実は「傾聴ボランティア」の一つで、今これは被災地だけではなくて、たとえば中山間地域つまり田舎に住んでらっしゃる高齢者の皆さんとのコミュニケーションツールとして、中学や高校でのクラブ活動として取り組むような学校も全国の中で徐々に出てきています。
こうしてボランティアと被災者の人たちに交流が生まれていく、あるいは被災者同士の交流が生まれてくる中で表情を失っていた人たちが、笑顔を無くしていた人たちが、それを取り戻して言ったんです。
その状況を私は目の前で見てましたから。だから人を救うのはやっぱり人しかないんだって、思った瞬間でもありました。

サロン(ビックパレットふくしま)

そしてサロンですね、喫茶店です。こういう事務所の長机をいくつか集めて、周りにパイプ椅子を並べただけ場所をサロン、喫茶店と呼んでたわけです。そんなお茶飲み場なんか作っても人が来てくれるかどうか、みんな寝ているだけなのに。でもやってみるしかない、他に手がかりが無いんだから。
喫茶店だからやっぱり若いスタッフがいいだろと、頼むよって言ったら彼らは巨大な物資の倉庫に行ってお茶の道具を見つけてきて並べて準備してるわけです。これが緑茶とか紅茶とかコーヒーとか。ところがコーヒーが、ネスカフェ(インスタントコーヒー)とかが見つからずに代わりに出てきたのは喫茶店の本格的なドリップコーヒーのセットだったんだ。
「どうやって淹れるんだこれ?」ってしばらく顔を見合わせていたら、向こうの方に寝ていた中年男性がおもむろに起き上がってくるのが見えた。基本みんな寝ているから目立つんだ。何だろうあの人?って言ってたら黙って近づいてきて無言のままこの道具を取り上げコーヒーを淹れ始める。良い香りがしてね。
すると「なんだいこれ、コーヒーごちそうしてくれんのかい?」って他の人も次々と起き上がってきて近づいてきた。スタッフの人たちが慌てて紙コップに入ったコーヒーを「どうぞ、どうぞ」と差し出すわけですよね。それで手に手にそれを受け取ると、椅子に腰を下ろしてコーヒー飲みながらいろいろ語り始めます。
その時コーヒーを淹れた人は、やがて皆から「マスター」と呼ばれるようになっていくんです。そうかと思うとマスターの手伝いをする人が出てくる、テーブルを拭いたりとか紙コップが無くなるともらってきますとか、その人はやがてみんなから偽マスターと呼ばれるようになってくるわけです。(笑)
そうかと思うと、「喫茶店だからさ、名前があった方がいいよ」って言い出す人たちがいて、そのエリアは富岡の人が多かった、富岡は町全体に桜の名所があったので「みんなの喫茶さくら」って名前がつくわけなんですよ。
花の名前の喫茶店だもの花があった方が良いよって、毎日のように花を飾ってくれたりね。
そうかと思うとマスターのところに何人かが大きな紙袋を二つ持ってきて「これを使って」って、マスターびっくりして「それなんだい?」「いいから早く開けてみて」。開けてみたら中に瀬戸物のコーヒーカップがいっぱい入っていた。「いつもさ、紙コップで飲んでちゃ味気ないものね。それ使ってさ美味しく飲もうよ」って言うわけですよね。またあるときは五、六人の人たちが近づいてきた、「おまえたちもこうやって毎日喫茶店なんて大騒ぎして集まってくるから、見てみろ床、汚れてしょうがねえよこれ」「だから俺たちにモップを貸して下さい」って言うんです彼らは。俺たちがここを掃除しますからって。
中高大学生の諸君わかりますか?そうやってテーブルの上に自治が生まれて行ったんです。「それは私がやるから」「それを俺やるよ」「みんなでやろう」って、どんどんと住民の人たちがやれることが積み上がっていった。この避難所が閉じられるまでに、喫茶店は3店舗この中に作られます。そして今でもその活動は続いています。

自治ってことですよね。君たちも自治活動を経験済みです、生徒会の活動もまさに自治ですよ。たとえば教室の中で班ごとに分かれて活動する、やったことありますよね。あれも自治ですから一つの。大学のサークル活動をどうするか、予算をつけたり、自治活動ですね、大学の自治会もあるわけでしょ。自治っていう経験を我々はしているわけだね。
大人たちもそうです。町内会、自治会も社会の中で工夫して生まれてきた組織なわけですよね。それを避難所でも取り戻して行ったわけです。

次のページへ >

-復興支援事業, ふくしまバトン

Copyright© 一般社団法人 伝統文化みらい協会 , 2024 All Rights Reserved.